エクイティ・ファイナンス
クィントゥス・フルウィウス・フラックス(Quintus Fulvius Flaccus)は共和政ローマの元老院議員。 紀元前237年に執政官を務め、北イタリアのガリア人と戦った。ケンソルには紀元前231年、そして再び執政官に紀元前224年に選出され、ケルト系のボイイ族(Boii)の征服を行った。そして紀元前215年にプラエトルに、紀元前213年にはマギステル・エクィトゥム(Magister Equitum)に選出された。 紀元前212年に再び執政官に、そして第二次ポエニ戦争に参加、しかしカプアにてハンニバルに敗れた。紀元前211年にはプロコンスルとしてベネウェントゥムでカルタゴ軍に雪辱は晴らし、大ハンノの野営地を攻撃、カプアを陥落させた。紀元前209年には四回目の執政官に、そして南イタリアのルカニア外国為替証拠金取引 (Lucania)とブルッティウム地方をローマ側に取り戻した。しかし、カルタゴの本拠地アフリカにローマ軍を上陸すべしとする若年ながら司令官として活躍していた元老院議員大スキピオの意見には反対のを取っていた。そしてスキピオが執政官となった紀元前205年から遠くない時期に没した。 ガイウス・フラミニウス・ネポス(Gaius Flaminius Nepos, 紀元前217年6月14日没)は、共和政ローマの元老院議員。プレブス(平民)出身の者としてグラックス兄弟よりも1世紀近く前にパトリキ(貴族)が独占する元老院の権威に立ち向かった人物である。 第一次ポエニ戦争の後、フラミニウスは戦後荒廃したイタリア半島の復興に従事する。彼は先祖にノウス・ホモ(新人)の一員として台頭し、紀元前232年に護民官に、そして数十年前にガリア人を追い出したリミニ南方の土地を分配することを住民投票で決定、そして土地を戦争で財を失った貧しい者に与えた。しかし、このことは元老院の相談なく独断で決めたために反発を受けたという。 紀元前227年にはシチリア島の総督として赴任、しかしその資産運用 彼が再編した地域にガリア人が侵入、しかし紀元前224年にタラモンの戦いで打ち破る。紀元前223年にフラミニウスは執政官に就任、進入したガリア人を屈服させ、属州としてガリア・キサルピナを制定する。 紀元前221年、彼は騎兵長官に就任、紀元前220年にはケンソルを勤めた。この任期に彼は建設事業を始め、ローマからリミニまでを結ぶフラミニウス街道、カンプス・マルティウスにフラミニウス競技場を築き、また植民都市としてクレモナ、プラケンティアを建造、投票権のない無産階級にも投票権を与える事をケントゥリア民会で承認させた。また元老院議員としてはクラウディウス法を通過させ、元老院議員とその子孫に海外交易に携わることを禁じた。 紀元前217年、ハンニバルがFX に侵攻していたが、彼は執政官に再び就任、これは戦争の元老院への告発に対する反発という意味合いがあった。フラミニウスは新たな軍団を創設し北上、ハンニバルと合い見えようとする。しかしトラジメーノ湖でハンニバル勢の伏兵に会い戦死、彼の軍隊は全滅した(トラシメヌス湖畔の戦い)。プレブスの彼に対する求心力は失い、再びパトリキを主体とする元老院の構造が復活した。そして元老院は独裁官(ディクタトル)としてクィントゥス・ファビウス・マクシムスを任命した。 その勇気を賞してハンニバルはフラミニウスの遺体を丁重に葬ったと言われる。 マハルバル(羅:Maharbal)とは第二次ポエニ戦争でカルタゴの将軍ハンニバルのもとで騎兵を率いていた人物。ハンニバルのイタリア進攻で勝利には欠かせない貢献をした。ティトゥス・リウィウスのローマ建国史にその名が見られる。 ハンニバルはまたイタリア進攻の最中も自らの騎兵戦力を補強しており、マハルバルにある程度の日経225 を与えていた。トラシメヌス湖畔の戦いでは彼は騎兵を率いる立場にいなかったが、ヒスパニア人散兵を率いてローマの敗残兵を捕虜としている。 しかしながら、彼はハンニバルに対しての言葉で最もよく知られている。カンナエの戦いの後、ローマに直進すべきという意見をハンニバルは受け入れなかった。これに対してマハルバルは『ハンニバル、あなたは戦争に勝つ術を知っていても、投資信託 を活かす術は知らない(Vincere scis, Hannibal; victoria uti nescis)』と言ったと言う。 グナエウス・セルウィリウス・ゲミヌス(Gnaeus Servilius Geminus, 生年不詳 - 紀元前216年)は、共和政ローマ時代の元老院議員。第二次ポエニ戦争初期で活躍、サルディニア、コルシカでの海戦でも活躍した。 同名の父親から生まれる。紀元前217年に執政官として選ばれ、アリミヌム近郊でハンニバル相手に対峙、そして同年4月にトラシメヌス湖畔の戦いで同僚執政官ガイウス・フラミニウスが戦死するとローマ海軍を率いて同年10月までサルディニア島、コルシカ島、北アフリカ沿岸区域に従事した。その後は再び陸戦軍団の指揮に戻り、紀元前216年初頭には前執政官として就任、ハンニバル配下の兵との小競り合いをする。そしてカンナエの戦いで戦死、この時彼は中央で指揮を執っていた。 プブリウス・センプロニウス・トゥディタヌス(Publius Sempronius Tuditanus, 生没年不詳、紀元前3世紀)は、共和政ローマの元老院議員。第二次ポエニ戦争に参戦し、ローマが敗戦したカンナエの戦いの後、少数の兵力でカルタゴ勢を突破して生き延びた。また紀元前203年執政官をつとめた。 カンナエの戦いでは司令官アエミリウス・パウッルスは野営地に10,000人守備として待機させていた。カンナエ大敗でカルタゴ軍が目前に迫る中彼らは選択を迫られる。その士官の一人にトゥディタヌスがおり、彼は生き残りの軍団の撤退の指揮を取ることとなった。 まず彼は皆に盾を持たせ、横並びにして防御網を作り疲弊したカルタゴ兵を強行して突破しようと提案、この提案にはほとんどの者が反対、多くの者はハンニバルに降伏して元老院からの賠償金で解放してもらおうと言った。トゥディタヌスは自分に賛同してくれた600人の者とともに圧倒的なカルタゴ勢を突入、驚いたカルタゴ兵たちは突破を許してしまう。この行為が彼の存在を有名にした。その後執政官ティトゥス・マンリウス・トルクァトゥスは捕虜たちの賠償金を払っての釈放を拒否、トゥディタヌスと比較して捕虜になった者を臆病者と呼んだという。 紀元前208年に彼は執政官にならないまま、マルクス・コルネリウス・ケテグスとともにケンソルに選ばれる。監察官には元老院を取り仕切る第一人者を任命する権利があり、若いながらもトゥディタヌスは当然ながらこの権利を有していた。同僚のケテグスは慣習に従って年長者の元老院議員トルクァトゥスにするものと思っていたが、トルクァトゥスをのような元老院の年長者とは不仲であった彼は、ハンニバルの守勢対策で不評ゆえに「ぐず」と呼ばれていたクィントゥス・ファビウス・マクシムスを支持、彼の決議は通過した。 紀元前203年にトゥディタヌスはコルネリウス・ケテグスとともに執政官となる。ケテグスとは監察官もともに勤めたが、この彼とは仲がよかったのかは分かってはいない。 ティベリウス・センプロノウス・グラックス(Tiberius Sempronius Gracchus, 紀元前213年没)は、第二次ポエニ戦争時期の元老院議員。紀元前215年と213年に執政官をつとめた。父は同名のティベリウス・センプロニウス・グラックス、大グラックスの叔父になる(大グラックスの父はプブリウス・センプロニウス・グラックス)。 グラックスが歴史に登場するのはカンナエの戦いの後、アエディリスに、その任期期間に独裁官となったマルクス・ユニウス・ペラのもとで騎士長官として任命されている。 紀元前215年に独裁官の推薦により執政官に就任、この業務には独裁官の命令に従い、ローマの同盟軍を見捨てる事も行っている。同僚執政官がガリアにて不意打ちに合い殺されると、マルクス・クラウディウス・マルケッルスが選出される。しかしパトリキ階級の者からプレブス出身の者を2名同時に執政官にする事がまかりならんと抗議され、マルケッルスは翌年の執政官に、そして彼に代わる執政官としてファビウス・マクシムスが選ばれた。そしてハンニバルに対して兵力が不足する中、ファビウス・マクシムスと元老院は奴隷の中で退役後自由民に解放する事を約束に、志願兵を募り軍団を作ることを決定する。そしてグラックスがこの奴隷軍団の指揮者となった。 彼はこの「奴隷軍団」の優秀な指揮官として名が知られるようになり、また一部が敵前逃亡を犯しても(敵前逃亡はローマ軍では十分の一刑に相当する重罪)寛大に接し、彼らからの忠誠と信頼を勝ち取ったという。紀元前214年には前執政官待遇で奴隷軍団を率いて中央、南イタリアに転戦、ハンニバルと対峙した。その戦いぶりは凄まじいものだったという。 紀元前213年に彼は再び執政官に選ばれる。その年の冬、任期が終わり次の年の執政官の命で奴隷軍団から離れた際に不意打ちに合い殺された。ハンニバルはこの死んだ司令官を丁重に葬り遺灰をローマに届けたと言う。そして国家ローマではなく司令官個人への忠誠心で成り立っていた「奴隷軍団」は霧散してしまった。